清華大学 Schwarzman Scholars 留学記

2019年9月より清華大学(Schwarzman Scholars)に留学。日々感じたことを綴っていきます。

「原爆神話 」批判を考え直す

ご無沙汰しております。


10月の国慶節が明けました。国慶節はまるまる10日間使って大学の友人とモンゴルを訪れ、大変貴重な経験をしてきました…追って記事にしたいと思います。

今はまだ国慶節ボケしています…と言いたいところですが、早くも多くの課題を出され、ボケてる暇もなく既にあっぷあっぷしております。。。

 

さて、今期取っている授業で、「Leaders and Leadership in History」というものがあります。名前の通り、歴史的リーダー/組織について学ぶ授業で、リーダーがどのような状況に直面し、なぜその決断を下したのか、そして決断を下すうえで何が課題であったのかを議論しています。その中で広島・長崎への原爆投下について扱った回があり、大変自分の印象に残ったので記録に残しておきたいと思います。

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「仮に50人を殺せば500人の命を救える状況にあったとする。そしたら僕は迷わず多くの命を救う為に50人を殺すよ。君もそれが正しい選択だと思わない?」

 

原爆についての議論の中で、ある東南アジアの同級生から投げかけられた質問です。その授業の課題図書は、原爆投下が日本の降伏をもたらし、結果として何十万人もの命を救ったという、日本では所謂「原爆神話」と言われる主旨のものでした。つまり、それを踏まえると彼の発言は「原爆投下によって犠牲者よりも多くの人を救えるならば、その決断もやむを得ない」とも取れるわけです。

 

「それ、数字が間違ってるんだよ。原爆がより多くの人を救ったといえる明確な根拠はないから。」私はすかさず応じました。

実際、原爆神話を批判する多くの文献では、大雑把な纏め方をすれば①原爆投下がなくとも日本は降伏していた、②原爆投下により何十万もの命が救われたという仮説に根拠はなく、実際は10万人以下だった、という主張が見られます。

①については8月9日のソ連対日参戦が日本の降伏の決断への最大のドライバーだったとするものが主流です。②については、例えば、米国軍ははじめ原爆投下をしなかった場合の犠牲者数を3-4万人と予測していたという文献が残っているが、1947年2月のスティムソン元陸軍長官がハーバーズ・マガジンに寄稿した論文に「100万人」という数字が突如出てきてからそれが公に使われるようになった、等といったものがあります。

 

「原爆の話では、その数字に根拠がないのはわかったよ。でも、いったん原爆の話は置いといて、もし多数の命を守るために少数を犠牲にしなくちゃならない状況に置かれたとしたら、君だって犠牲は仕方ないと思うよね?」

これにはしばし考えてしまいました。多数の命を守る選択は正しいように感じます。しかし、少数の人々も等しい価値の命を持つ人間です。「トロッコ問題(※)」とも言われる倫理的課題であり、容易に答えを出すことはできません。

また、「話は置いといて」とは言え、この問いを原爆に当てはめた場合、「原爆が本当に多くの命を救ったのなら、それは取らざるを得ない選択肢だった」とも聞こえてしまいます。
(※)トロッコ問題:制御不能になったトロッコの進路を変えなければ、前方で作業中の5人がひき殺されてしまう。しかし進路を変えれば別路線で作業をしている1人が死んでしまう、という状況でどのような決断を下すべきか、という論題。言い換えれば「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験。

 

この同級生との議論は、ずっと私の中に影を落とし続けていました。原爆神話に対する反論の主旨は、前述の通り①原爆投下がなくとも日本は降伏していた、②数十万人もの命が原爆によって救われたというにはでっち上げだ、というもの。つまり、原爆神話そのものに根拠がないということです。

しかし、もし仮に「原爆投下によって100万人の米国人・日本人の命が救わた。これは原爆投下による犠牲者数を大幅に上回る数字である」という主張に根拠があると証明されたとしたら、私たちは「原爆投下は仕方がない(正しい)選択だった」と言わざるを得ないのでしょうか?

 

何度考えても、私の明確なスタンスは「原爆投下は絶対に正当化してはいけない」です。日本で生まれ育ち、教育を通して原爆の被害について学んだ一日本人として、「それは仕方なかった」という主張は許されざることのように感じるからです。また、原爆投下を正当化する主張を唱えられるのは、米国が戦勝国だからでもあります。もし米国が敗戦していれば、原爆投下に携わった人は間違いなく戦犯として扱われ、大きな過失を犯したと見做されていたでしょう。

しかし、同時にもし私が日米どちらでもない第三国の国民として生まれ育っていたとしたら、前述の同級生のように「すごく悲惨なことだけど、でも当時は仕方なかったんじゃん」とも考えたかもしれないと思います。日本人という自身のアイデンティティが、自分が思う以上に意見形成や考え方に影響を齎しているのだと改めて感じます。

 

一連の議論を通し、頭は非常に混乱したものの、私が現時点で感じているのは「歴史とは勝者が中心となって書いた物語であり、また個人の偏見の集合体でもある」ということ。

原爆投下についても、国が違えば見解は正反対になり得ます。米国の主張に正当性があると見做されることの大きな要因の一つには、米国が戦勝国であるということもあるでしょう。また、一人一人が生まれ育った環境に基づくバイアスをもって物事を捉えてしまうのは避けられないことです。そのような個々人の見解を国という単位で纏め上げたものが「歴史」であると感じています。

 

また、原爆投下については、日本の教育や映画、ドラマ等で目にすることが多いですが、自国が加害者側に立った出来事については殆ど学ぶ機会がないように思います。例えば第二次世界大戦中、他国の捕虜を使い惨たらしい人体実験を行っていた731部隊等、殆ど教育の場では取り上げられないのではないでしょうか。

被害者としてのスタンスはいつまでも強く維持したいと感じる一方、残忍な加害者としての側面には目をつぶりたいという思いが、国民の中にあるのではと思います。それは日本に限った話ではなく、人間であれば誰でもそのような気持ちをもってしまうのは自然です。このように、被害者意識に基づくバイアスのかかった歴史認識をもってしまう一面があることも認めなくてはいけません。

 

よく、歴史教育で「事実を客観視して」等といいますが、それってすごく難しい。殆どの人がナショナルアイデンティティを持っていると思うし、自国の視点から一つ一つの出来事を見ていくことが一番自然かつわかりやすいからです。

 

ひとまず、日本が歴史教育においてすべきことは、「原爆神話には根拠がないんだ」と叫ぶことでもなく、「唯一の被爆国」という被害者意識のみを肥大化することでもありません。

原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という言葉を実現するためには、なぜ当時の各国の指導者はその決断を下したのか、彼らはどのようなアイデンティティを持っていたのかを知り、そして自国は他国に対してどのような行為を行ったのかという加害者としての側面にも正面から向き合うことが必要なのだと思います。今の日本の教育は十分にそれができているとは言えないでしょう。

 

歴史に正解を見出す事はできないかもしれないけれど、未来を自らの手でより良いものにしていくための材料として、学び続けることが必要なのだと思います。…とにかく色々と考えされた授業となりました。