清華大学 Schwarzman Scholars 留学記

2019年9月より清華大学(Schwarzman Scholars)に留学。日々感じたことを綴っていきます。

中国映画「狗十三」―中国式教育の失敗?

2018年に公開された「狗十三(英語タイトルはEinstein and Einstein)」、オンラインで見ました。
子どもに多くを期待する「中国式」ともいえる家庭教育が、子どもをじわじわと壊していくようなストーリーで、見終わった後ももやもやが残っております。。。

 

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画像はAsian Diamondsより

舞台は2008年(2006年だったかも?)ごろの西安。13歳の少女、李玩(Li Wan)とその家族のお話です。両親が離婚したため李玩は祖父母と暮らしており、父は二番目の妻と新しい家庭を築きつつも、李玩のところにもちょこちょこ顔を見せるような生活でした。
ある日、父は李玩の遊び相手に、と犬をプレゼント。李玩は犬を爱因斯坦(アインシュタイン)と名付け、信頼関係を築いていきますが、とあるアクシデントによりアインシュタインは脱走。周囲の大人が脱走したアインシュタインをないがしろにする対応を取ったことを機に、父と娘、そして祖父母と娘の対立が深まっていきます。

 

…あらすじを書くのが下手すぎて非常につまらなそうな話に見えますが、じんわりと心にくるような面白さがある映画です。(はじめの30分くらいは実際つまらなくて見るの止めようかと思いましたが、最後まで見て正解でした)
撮影は2013年ですが、公開が5年間禁止され、2018年にようやく解禁となった映画です。禁止されていた理由は、途中に李玩のシャワーシーンがあるからだったそうです。時間にして1分もありませんが…

 

この映画で幾度も出てくるのが、子(娘)vs親の対立
例えば犬が逃げてしまった時に「別の犬飼えばいいんでしょ」と軽くあしらう父や祖父母vs抵抗する李玩。物理が大好きで、学び続けたい李玩vs物理なんてどうでもいいと思っており、無理やり娘に英語を学ばせる父。挙句の果てには娘と出かける約束を守らないまま上司との会食に13歳の娘を同行させ、酒を飲ませる(そんなことありえるのか??)といった、子どもを意のままに操ろうとする親の姿がありとあらゆる場面を使って映し出されていきます。

 

中国の家庭においては、子どもは「听话(tīnghuà)=従順、人に逆らわない」 かつ「懂事(dǒngshì)=聞き分けが良い」であることが良しとされると言われます。中国というかアジアでとりわけ強い傾向かもしれませんね。映画でも、当初父親に強く反抗する李玩ですが、次第に自我を主張する情熱を失い、聞き分けの良い子どもになっていきます。
親にとってはそれが正しい子育ての結果かもしれません。一方、子どもは個性を消し去り、夢を諦めて親の願いをかなえることが「成長」と理解していきます。それが正しい子育ての在り方なのか、作品を通して問いかけています。

 

同時に、中国において未だに根強い性差別があることもこの物語は浮き彫りにしています。例えば、父と二番目の妻の間に息子(李玩からすると異母弟)が生まれるシーン。「李玩が生まれた時は女の子だから適当に名前つけたけど、男の子だから今回はちゃんと名前考えようなあ」という祖父の衝撃的な発言がさらっと出てきます。
また、李玩は何から何まで否定されて生きている一方、弟は周囲から溺愛され、「小皇帝(※一人っ子政策以降、過保護な親の元で育った子供)」ぶりを発揮していきます。


なお、タイトル「狗(=犬)十三」は、映画に出てくる「犬」と主人公の年齢(「13」歳)にちなんでつけられています。
しかしそれだけでなく、十三の英数字「13」が「B」のようにも見えることから、中国語のめちゃくちゃ汚い言葉である「逼(bi)」という言葉とも掛け合わせた意味合いを持っているらしいです。英語のFワードに近い感覚だとか。それだけ強い言葉で今の家庭教育の在り方を批判しているとも取れるのでしょう。

 

10年以上前の物語の設定とは言え、現代の中国の家庭教育にも間違いなく通ずる部分はあるでしょう。中国の青少年、とりわけ少女が受ける圧力を鮮明に描写している作品でした。中国の教育や現代社会などに関心がある方にはおススメです。

修論を終えて

修士論文のディフェンス(口頭試問)が先週末無事終わりました。あ~ほっとした。。。
提出期限の直前は「ヤバい」と「なんで直前までちゃんと取り組まなかったんだろう」しか考えられませんでしたがw、本当に無事に終わってよかったです。。かなり久々に胸のつかえがとれたような感覚を味わっています。

コロナの影響で、ディフェンスはオンラインで実施。清華大学史上、初だったそうです。
どんな感じで論文執筆・発表を進めていったのか、ご紹介します。

★シュワルツマンにおける「卒論」とは

  • 概要:シュワルツマンではCapstone Projectと呼ばれるもので、卒業するにはCapstoneを仕上げるのがマストです。プロジェクトは(A)Case Analysis、(B) Policy Analysis、 (C)Academic Research Paperから選べます。分野も経済、ビジネス、政治、科学等基本的になんでもあり。中国に関連していなくてもOKです。

  • 執筆の形態:執筆は個人orグループ。

  • グループの場合は、トピック及び担当教官が既に学院側で決められているので、それに応募する感じになります。今年度の例としては、中国の教育改革、オンラインゲームの海外市場開拓など。日中の科学技術協力なんてのもありました。

  • 企業がグループのスポンサーとなり、完全に特定の企業向けの戦略を構築するようなトピックもありました。シュワルツマン側は企業から協賛金を得られ、企業も学生からのアイディアを聞けるというWin Winな関係を実現するものなのかもしれません。

  • 全学生140名のうち、ざっくり40名(約5人×8グループ)、100名が個人で書くかんじです。

  • 分量:個人のプロジェクトの場合は10,000ワード(約40頁)が目安。
    グループの場合は、グループとして書くセクション:20,000~35,000ワード、プラス個人で書くセクション:2,000~3,000ワード。

ちなみに私は個人プロジェクトを選択。日本の憲法9条について、主に国内の議論をまとめつつ、改正した場合の日米および日中関係への影響について書きました。10,000ワードも書けるのかな…と不安に思っていましたが、書き終わってみると17,000ワード(65頁)くらいになってしまいました。だらだら書きすぎた、反省です。。

★卒論提出の流れ

  • 12月中(?忘れた) 担当教官決定。ゆっくり修論の準備開始
  • 1月中旬 修論の概要決定/担当教官にプレゼン、承認を得たらAcademic teamに提出
  • 3月中旬 担当教官向けに中間発表…が本来の予定として組まれていましたが、コロナで無しに。ドラフトをメールを送るだけでした。
  • 4月末 担当教官/学部宛てに第1稿提出
  • 5月初旬 担当教官よりフィードバック【①】、修正→第2稿を2人のReader(匿名の教授2名)宛て提出。
  • 5月中旬 2人のReaderからもらったコメントを元に修正。担当教官から修正について許可をもらった後、第3稿をAcademic Team及び、口頭試問を担当する教授3名(こちらも匿名)提出。
  • 5月末 第3稿を元に発表(15分)+質疑応答(10分)【②】
  • 6月初旬 最終版をAcademic Teamに提出

★成績評価

  • 色々提出しますが、第1稿提出時の担当教官からのフィードバック(上記①)、および5月末の卒論発表(②)が評価対象となります。

  • ① ・②の成績のウェートは50%ずつ。どちらも100点満点でスコアが付きます。(例えば①で80点、②で70点だった場合、最終の点数は75点。)

  • 最終成績が60点以上だった場合、”Pass”となり、無事合格です。卒論はPass/Failとして成績表に載ります。A、B、C等といった段階的評価は出ません。なので最終評価が60点だろうが、100点だろうが成績表上では全く同じです。

★終えてみて、雑感
 

書く作業

  • Procrastinatorという単語ほど私を的確に表す言葉はないと思います。日本語だとしっくりくる表現があんまりないんですよね…なんでも先延ばしする人、みたいな。
    とにかく、卒論には早く取り組むに越したことはないですね。本当に。こんなに後悔するんだ人間、というくらい遅くに始めたことを後悔しました。早く始めて損することなんてほとんどないはずなので、これからは本当に早め早めに、余裕をもって取り組みたいと思います。

  • 図書館が開いてないのは、きつい。清華大学に加え、NYUのonline libraryも使えましたが(※)、やはり紙の本もきちんとカバーしないと包括的にリサーチをしたという自信が持てません。参考文献もウェブサイトばっかりだったし。
    (※)アブダビ校に行くはずだったため学生アカウントは既に持っており、NYUのご厚意でオンラインのリソースを使わせてもらえました

  • 担当教官との相性は大事。トピックと教官の専門分野が合致しているように見えても、何に重点を置くのかの考え方が違うと大変です。途中で指導教官を変える子も結構いました。

  • 自身の主張を入れることの難しさを実感。私は議論の対立軸を見つけて、それぞれの主張を証明するエビデンスを組み合わせることは割とできるのですが、「だから私はこう思う」と入れ込むのが結構難しい。初めは何も主張がない論文になってました。そうかと思って色々と入れてみると、指導教官から「あんたの主張はいらん」と言われたりと、バランスが難しかった…これはまだ自分でも正直コツが掴めていません。

ディフェンス

  • 卒論の書き出しをぐずぐずした反省を生かし、かなり早めにPPTスライドづくりに取り組めたのは良かったです。ちゃんと担当教官にも事前相談しながら進められたし。ギリギリに取り組んでしまったため、担当教官に見せないまま発表をした学生も割といたようです。
    (担当教官に見せるのはマストではないので問題ないが、やはり教官に相談した方がクオリティは担保されるかと。ちなみに当然ですが、担当教官はディフェンスには参加しません)

  • オンラインのディフェンスで、身振り手振りを交えたプレゼンをしても、ほぼ意味ありません(たぶん)。わかりやすい、かつ字が少な目のスライドを用意して、クリアに話すのみ。

  • パネルの反応や、どこに興味を持っているかを見られないのも結構歯がゆいです。口頭試問や面接っていうのはやはりコミュニケーションなので、相手の表情が見られることはやはり大事だなと実感しました。

  • 質疑応答に関しては、オフラインでやるのとほぼ変わらないと思います。但し、グループプレゼンで質疑応答でする際には、誰がどの質問に答えるかをすり合わせる時間がないので大変だったみたいです。質疑応答中、Wechat上で答える人の割り振りをして事なきをえたようです。

 

と、ディフェンスを終えてひと段落したところでの感想でした。卒業まであと1か月弱、思い出したことをちょくちょく書いていけたらと思います!

中国のオンライン教育-教育格差は是正されるのか?

前回はオンライン教育を受けてみての個人的な感想を書きました。
今回はもう少し視野を広く、コロナウイルス感染拡大によって中国のオンライン教育にどのような影響が出ているかを考えてみたいと思います。

中国では先月末ごろから、徐々に学校は再開されているようですが(※4/27より上海市では高3&中3は登校が認められました)、完全に元に戻るまでは時間を要するでしょう。いくつか読んだ記事・論文を紹介しながら、以下、簡単にまとめてみました。

 

●都市と地方の教育格差
中国の都市と地方の教育格差は、かねてから指摘されている問題です。
2011年のChina Sourceの記事によると、上海などの都市部における教育はOECD諸国でもトップレベルとされるようですが、農村部になると授業や教師の質が落ちるばかりでなく、農作業の手伝いのためにそもそも生徒の出席率が低くなる傾向があるとのこと。2013年のCNNのニュースでも同様の指摘がされています。

スタンフォード大学のLi Hongbin教授、Scott Rozelle教授等が発表した2015年のレポート”Unequal Access to College in China: How Far Have Poor, Rural Students Been Left Behind”によると、地域別の大学進学率には格差があり、貧富の差以上に地域の差が大きいとの結果が出ています。これは、都市部の若者はたとえ貧困層の家庭であっても、比較的親が(肉体労働者ではなく)専門職に就いている割合が高いことが一因ではないか、と分析されています。

また、2014年のNYTでも、北京大学清華大学に入る学生のうち、農村部出身者は減少傾向にあると報じています。また、エリート大学は北京や上海のような一級都市からの学生に高い入学枠を割り当てています。

在北京の学生は、(農村が多い)安徽省の同レベルの学生と比べ、北京大学に入学できる可能性が41倍高いという調査結果も示されています。農村部の学生からすると、都市部の質の良い教育を受けている学生に勝てる見込みは低く、結局大学受験をするよりも働きに出る方がリターンが大きいと考える傾向にあるようです。

 

都市部の方が教育の質が高いなら、引っ越して都市の学校に通っちゃえばいいのでは?とも思えますが、これもまた難しい。中国では戸口(Hukou)という戸籍のシステムがあり、戸口に登録された場所と、受けられる社会保障や公共サービスと紐づいています。結果、農村部に戸口がある移民の子供たちが都市部で教育を受ける場合、都市部の戸口所持者よりも高い授業料を払わされたりします。戸口についてはまた別の機会に書きたいと思います。

 

●オンライン教育によって、中国内の教育格差は縮小するのか
そこでコロナウイルス感染拡大による、オンライン教育の拡大が進んでいきます。中国では1月後半から中国政府より閉校の指示が出されています。スローガンは「停課不停学」。休校中でも学びは止めない、ということです。

 

オンライン教育は、場所ごとの教育格差を縮めるという意見があります。確かに、オンライン教育ではネット環境さえあれば、質の良い授業にアクセスできる機会は増えます。今年2月のSupchinaによると、例えば陝西省では、国のカリキュラムに基づく授業がそれぞれの専門の教師によって録画され、オンラインで無料で視聴できるとのこと。初めて省全体で、質の高い授業を受けられることが実現したのです。

 

しかし、実際のところは格差が縮小どころか拡大するのでは、という論調の記事が多い印象です。それはなぜか。ネット環境や家族構成、両親の仕事といった要素が関係してくるからです。
2020年3月のNYTでは、農村部や出稼ぎ労働者の家庭では、家庭内で一人一台スマホが持てず、父親が仕事中にスマホを使わざるを得ないケースもあると述べられています。通信環境の良い場所で授業をうけるため、何時間もかけて授業を聞くこともあるようです。また、両親が共働きの出稼ぎ労働者の家庭では、祖父母が面倒を見る場合が多く、祖父母がスマホ慣れてしていないのでサポートできないという現象もあるようです。

3月のEconomistでは"How the Virus Kills Dreams for Chinese Teens"という些か衝撃的なタイトルで中学生の現状を報じています。ポイントは、中国において中考(Zhongkao)、すなわち高校入試が人生を左右しかねないものであること、そして中考の対策において、オンライン教育の格差を更に拡大していること。

中国の高考(Gaokao)は割と有名ですよね。大学入試、日本でいうセンター試験のようなものです。非常に競争が過酷で、人生大一番の勝負のように語られることもあります。
しかし上記のEconomistの記事では、そもそも良い大学に入るためには、良い高校への入学、というスタートラインに立つ必要があると指摘しているのです。

オンライン教育への移行後は、ネット環境や持っているパソコンのクオリティ、また家庭教師がいるかいないかの差が顕著に表れます。例えば、輔導君Fudaojun)というオンライン家庭教師のアプリのユーザーは昨年比で72%増加したようです。輔導君は40分150元(約2,300円)と家庭教師にしては安価ですが、低収入の家庭にとっては厳しい額でしょう。恐らく増加した分の多くは都市部/中流以上の家庭ではないかと思います。結局、教育格差は家庭の収入格差や環境の格差を反映したものになっているのが現状でと言わざるを得ません。


●オンライン教育は拡大するのか
では、このオンライン教育、コロナ収束後も中国で拡大を続けていくのでしょうか。
コロナ発生以前から、AIやテック系教育は拡大傾向にあります。2020年3月のThe Diplomatでは、昨年には国務院がAIやテック系教育支援に計60億USDを投じたこと、また中国の教育系関係企業に対する投資額(2014~2018年)は、米国、EU、インドを合わせた金額の1.5倍に達したことを指摘しています。また、教師にとっても、同じ内容の授業を何度もしなくて済む、採点にかける時間を短縮するなどの利点があるとのこと。


しかし、学校が本格的に再開した際に、オンライン教育が引き続き幅広く利用される見込みは薄いのでは、と論じています。EdTech関連の専門家やBeverly English(中国人向けオンライン英語教育)の創立者の発言から、あくまで中国の人にとってはオンライン教育は日常的な生活の代替手段であり、劇的かつ長期的な需要拡大には至らない、との見方を示しています。

 

オンライン教育は教育の質を平準化する役割はある一方、結局はスマホを持っているか、ネットは通っているか、親がしっかりサポートできる環境か…といった要因により、結果的には教育の格差は拡大傾向にあると言えそうです。

コロナ収束後はオフラインに回帰していくと思いますが、今回のコロナ禍で拡大してしまった格差が少しでも縮小されること、またそのための農村部へのネット環境整備や、質の改善等に政府も力をあげて取り組むことが求められそうです。

オンライン教育を受けてみて思うこと

ようやく、ようやく卒論が落ち着いてきました。山場は越えた感じがします。引き続きオンラインで卒論や授業の受講をしています。

オンラインでの卒業関連の手続きは大学側にとっても大変なようで、卒論発表や卒業式の日程もまだ確定はしていないようです。そうはいっても恐らく卒業は6月末のはず。このブログもほとんど更新できませんでしたが、これから卒業までの期間、気づいたこと等を少しまとめて投稿する期間にできればと思います。

 

コロナの感染拡大による世界中の学生への影響は、やっぱりオンライン教育への移行ではないでしょうか。シュワルツマンも、以前投稿した通り、第3・4学期はZoomで授業をしています。

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(写真は学院公式Twitterより)

講義から知識をインプットするという点においては、私はオンラインで十分と感じています。もちろん教授を目の前に授業を聞く方が頭に残りやすい人もいると思うのだけど。
一方、ディスカッションはface to faceの方が私はやりやすいですね。日本語だったらオンラインでもあまり障害は感じないのかなと思いますが、語学面でハードルがある場合は、オンラインディスカッションで相手の顔が見えない場合、進んでいる議論に割って入っていくのは結構難しいです。

そんな感じで、オンライン教育を受けてみての個人的な感想をまとめてみました。

 

良い点

  • 通学時間の短縮。シュワルツマンの場合は寮も教室も全て一つの建物になっているので元から通学時間はかかりませんが、それでも自宅で受ける分、無駄な時間は最小限にできるでしょう。
  • 他の生徒の文章を読む機会が増える。ライブのディスカッション時間が必然的に減る代わりに、学校の掲示板上での書き物ベースの議論が増える。
    Article sharing といって、オンラインで見つけた報道記事や論文、youtubepodcast等のシェアをすることが成績の一部としてカウントされることが多くなりました。単にシェアするだけではなく、自身の分析や感想も書く必要があります。非ネイティブにとっては、ゆっくりと時間をかけて意見の発信ができるうえに、高い評価を受けている生徒の文章も読めるのでかなり勉強になります。
    普段は論文や記事ばかり読んでいて、他の生徒の文章を読む機会はそんなに多くないのです。学生によるエッセイのサンプルとかを読んでみたいと思っていたので、掲示板は参考になりました。
  • 授業のアーカイブが聞ける。これも非ネイティブにとってはありがたいです。私は未だに授業中に出てくる単語一つの意味がわからないともやもやした状態で聞き続けてしまう傾向があるので、停止して何度も聞き直せるのが便利ですね。
微妙な点
  • ディスカッション。特にお互い顔が見えない設定にしていると、進んでいる議論に割って入ることが難しくなります。ちなみに人数が多い授業だと、全員ビデオをオンにしていると回線が遅くなってしまうため、生徒は音声のみでの参加がほとんどです。
  • ちょっとしたことを聞ける友達が近くにいない。これ、結構大きいです。学校にいた際は友達と寮のコモンルームで勉強することが多く、論文を書く中で英語の表現で悩む場合は「この表現、合ってる?」など友人に気軽に聞くことができました。今は完全に一人なので、

    Grammarly

    というアプリを使ったりしてしのいでいます。Grammarlyの正確性については評価が分かれるみたいですが、ないよりは絶対あった方がいいと個人的には思います。
  • Field trip等の開催が難しい。シュワルツマンのField tripは運よく11月中旬に終えていた(私はアモイに行きました)ので影響がなかったですが、今年の前半に予定されているものがある学校の場合、開催は残念ながらほぼ不可能でしょう。新しい環境の全てを五感で感じ取ることも醍醐味の一つであると考えると、ヴァーチャルな手段での代替は残念ながら難しいと思います。
  • 実験等ができない/難しくなる。私はド文系なのでほぼ関係ないですが、理系の方は大変なんだろうと思います。

中国におけるオンライン教育の現状についても書きたかったですが、長くなってしまったのでまた別の機会に。

なんだかんだで、日本

アブダビからこんにちは!

初の中東の滞在、楽しくて仕方ありません!先週末には念願のフェラーリワールドに行ってきました。世界最速のジェットコースターが有名で、めちゃくちゃ楽しみにしていたので時間があっという間に過ぎまs…

 

とか今頃言っているはずでしたが、

アブダビ行きが全員キャンセルとなり、引き続き日本に滞在しております。

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全世界的な感染になっているので仕方ないですね。

UAE政府は中国人の入国制限をかけていたので、わざわざエジプト(中国人の入国制限なし)で2週間前から待機していた同級生が何名かいました。
結局ピラミッドを見て中国にそのまま帰らざるをえなかったようです。修学旅行じゃん。楽しかったみたいだから、よかったけれど。。

 

ということで、相変わらずオンラインの授業を日本で受け、課題をこなす毎日です。

そんな中でも、全世界に散ってしまった学生のコミュニティを少しでも維持しよう!とオンラインミーティングやチャット等、様々な試みが学生間でなされています。

 

先日は、中国人/イタリア人の学生がコロナに関する情報共有会を開催。例えばこんな感じの話がありました(3月中旬時点の情報なので、これからどんどん変わっていくと思います)。

●中国

  • 四川省政府は、湖北省に近いので深刻に捉えている。手洗いの啓発を放送する車が走っていたりする
  • 人の移動を避けるため、移動する車のナンバープレート規制がある(@成都
  • 外出時には身分証、外出許可証の二点提示がマスト。体温測定も必ず実施(@北京)
  • 普段は人との距離がめちゃくちゃ近い高齢者ですら、距離を取ろうとしているのがかなり変な感じ。こんなこと初めて。
  • 山西省太原では、患者が計20人しか出てないため、警戒ムードは終息しつつある。外出も自由

●イタリア

  • 後期高齢者(75歳以上)の数が多いことが感染拡大の一因
  • イタリア全土でも休校になったが、みんなスキーに行ったので実質意味なし
  • 全国封鎖への支持は国内でも高まっているが、感染拡大が激しい北イタリアでは特に支持者が多い印象。南部ではまだそこまで広がっていないため、反対も多い

 

清華大学開校の日はまだ決まっていませんが、自分でどうにもできないことについては思い悩まず、日本にいてもできることを粛々とやって過ごしていきたいと思います。

 

。。。寮の部屋に置きっぱなしにしてある私のトマトジュースは今どうなっているのだろう。。。。

Schwarzman Scholars、コロナウイルス感染拡大を受けての対応

想定外の連続、です。

 

コロナウイルス感染拡大が起こることはSchwarzman Scholars入学当時はもちろん全く想定していなかったし、入学後の数か月、自身がここまでの苦労をすることも正直想定していませんでした(笑)

人生は想定した通りにいかない。予想外の状況になった時、それをストレスと感じるか、楽しめるかで人生大きく変わるんだろうなと実感した数か月です。

 

もはや日本も大変な状況ですが、中国の方は特にまだ不安な中で過ごしているのではと思います。一刻も早い収束を心から願います。。

 

●Schwarzman Scholars、アブダビへ一時移転

Schwarzman Scholarsは、コロナウイルスの感染拡大を受けオンラインでの開講、およびNY大学アブダビ校への一時的な移転を決定しました。

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UAEが中国からの渡航者の入国制限をかけていることもあり、全員がアブダビに行けるわけではありませんが、このSchwarzman Scholars運営部の迅速な対応は素晴らしいと思います。学生間のネットワーク構築が本プログラムの要であり、学生の成長や将来を非常に重く考えている表れでしょう。恐らくキャンパスを移転するまでの対応をしたのはSchwarzmanくらいなのでは。

 

3月上旬から清華大学の開校が決定するまで、学生(の一部)はアブダビ滞在となります。UAE日本からの入国制限をかけないことを祈るばかりです…!

 

●オンライン授業

第3学期は2月17日より開始しており、今はオンラインで授業を受講しています。これはSchwarzman Scholarsに限らず、清華大学全体としての対応です。北京大学なども同様と聞いています。

Schwarzmanの対応で特有な点と言えば、Zoomというアプリを使用しているところと出席のルールくらいかと。

Zoom:
ライブ講義はもちろん、授業中のグループディスカッションや語学のマンツーマンレッスンなどにもZoomで対応しています。過去の授業のビデオも視聴できます。

出席ルール:
原則ライブ講義の出席必須です。
各学生の滞在場所との時差を考慮し、 授業が現地時間の0時~6時に開講する場合は、ライブでの授業参加は免除となります。ただし、講義のビデオがアップロードされてから24時間以内に、コメント/質問を教授に送付しないと出席としてカウントされません。清華大学はかなり出席のルールが厳しいので、まあ納得です。

 

これからも色々な想定外が続いていくことと思いますが、とにかく楽しんで過ごすことを目下の目標に、過ごしていきたいと思います。

「原爆神話 」批判を考え直す

ご無沙汰しております。


10月の国慶節が明けました。国慶節はまるまる10日間使って大学の友人とモンゴルを訪れ、大変貴重な経験をしてきました…追って記事にしたいと思います。

今はまだ国慶節ボケしています…と言いたいところですが、早くも多くの課題を出され、ボケてる暇もなく既にあっぷあっぷしております。。。

 

さて、今期取っている授業で、「Leaders and Leadership in History」というものがあります。名前の通り、歴史的リーダー/組織について学ぶ授業で、リーダーがどのような状況に直面し、なぜその決断を下したのか、そして決断を下すうえで何が課題であったのかを議論しています。その中で広島・長崎への原爆投下について扱った回があり、大変自分の印象に残ったので記録に残しておきたいと思います。

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「仮に50人を殺せば500人の命を救える状況にあったとする。そしたら僕は迷わず多くの命を救う為に50人を殺すよ。君もそれが正しい選択だと思わない?」

 

原爆についての議論の中で、ある東南アジアの同級生から投げかけられた質問です。その授業の課題図書は、原爆投下が日本の降伏をもたらし、結果として何十万人もの命を救ったという、日本では所謂「原爆神話」と言われる主旨のものでした。つまり、それを踏まえると彼の発言は「原爆投下によって犠牲者よりも多くの人を救えるならば、その決断もやむを得ない」とも取れるわけです。

 

「それ、数字が間違ってるんだよ。原爆がより多くの人を救ったといえる明確な根拠はないから。」私はすかさず応じました。

実際、原爆神話を批判する多くの文献では、大雑把な纏め方をすれば①原爆投下がなくとも日本は降伏していた、②原爆投下により何十万もの命が救われたという仮説に根拠はなく、実際は10万人以下だった、という主張が見られます。

①については8月9日のソ連対日参戦が日本の降伏の決断への最大のドライバーだったとするものが主流です。②については、例えば、米国軍ははじめ原爆投下をしなかった場合の犠牲者数を3-4万人と予測していたという文献が残っているが、1947年2月のスティムソン元陸軍長官がハーバーズ・マガジンに寄稿した論文に「100万人」という数字が突如出てきてからそれが公に使われるようになった、等といったものがあります。

 

「原爆の話では、その数字に根拠がないのはわかったよ。でも、いったん原爆の話は置いといて、もし多数の命を守るために少数を犠牲にしなくちゃならない状況に置かれたとしたら、君だって犠牲は仕方ないと思うよね?」

これにはしばし考えてしまいました。多数の命を守る選択は正しいように感じます。しかし、少数の人々も等しい価値の命を持つ人間です。「トロッコ問題(※)」とも言われる倫理的課題であり、容易に答えを出すことはできません。

また、「話は置いといて」とは言え、この問いを原爆に当てはめた場合、「原爆が本当に多くの命を救ったのなら、それは取らざるを得ない選択肢だった」とも聞こえてしまいます。
(※)トロッコ問題:制御不能になったトロッコの進路を変えなければ、前方で作業中の5人がひき殺されてしまう。しかし進路を変えれば別路線で作業をしている1人が死んでしまう、という状況でどのような決断を下すべきか、という論題。言い換えれば「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験。

 

この同級生との議論は、ずっと私の中に影を落とし続けていました。原爆神話に対する反論の主旨は、前述の通り①原爆投下がなくとも日本は降伏していた、②数十万人もの命が原爆によって救われたというにはでっち上げだ、というもの。つまり、原爆神話そのものに根拠がないということです。

しかし、もし仮に「原爆投下によって100万人の米国人・日本人の命が救わた。これは原爆投下による犠牲者数を大幅に上回る数字である」という主張に根拠があると証明されたとしたら、私たちは「原爆投下は仕方がない(正しい)選択だった」と言わざるを得ないのでしょうか?

 

何度考えても、私の明確なスタンスは「原爆投下は絶対に正当化してはいけない」です。日本で生まれ育ち、教育を通して原爆の被害について学んだ一日本人として、「それは仕方なかった」という主張は許されざることのように感じるからです。また、原爆投下を正当化する主張を唱えられるのは、米国が戦勝国だからでもあります。もし米国が敗戦していれば、原爆投下に携わった人は間違いなく戦犯として扱われ、大きな過失を犯したと見做されていたでしょう。

しかし、同時にもし私が日米どちらでもない第三国の国民として生まれ育っていたとしたら、前述の同級生のように「すごく悲惨なことだけど、でも当時は仕方なかったんじゃん」とも考えたかもしれないと思います。日本人という自身のアイデンティティが、自分が思う以上に意見形成や考え方に影響を齎しているのだと改めて感じます。

 

一連の議論を通し、頭は非常に混乱したものの、私が現時点で感じているのは「歴史とは勝者が中心となって書いた物語であり、また個人の偏見の集合体でもある」ということ。

原爆投下についても、国が違えば見解は正反対になり得ます。米国の主張に正当性があると見做されることの大きな要因の一つには、米国が戦勝国であるということもあるでしょう。また、一人一人が生まれ育った環境に基づくバイアスをもって物事を捉えてしまうのは避けられないことです。そのような個々人の見解を国という単位で纏め上げたものが「歴史」であると感じています。

 

また、原爆投下については、日本の教育や映画、ドラマ等で目にすることが多いですが、自国が加害者側に立った出来事については殆ど学ぶ機会がないように思います。例えば第二次世界大戦中、他国の捕虜を使い惨たらしい人体実験を行っていた731部隊等、殆ど教育の場では取り上げられないのではないでしょうか。

被害者としてのスタンスはいつまでも強く維持したいと感じる一方、残忍な加害者としての側面には目をつぶりたいという思いが、国民の中にあるのではと思います。それは日本に限った話ではなく、人間であれば誰でもそのような気持ちをもってしまうのは自然です。このように、被害者意識に基づくバイアスのかかった歴史認識をもってしまう一面があることも認めなくてはいけません。

 

よく、歴史教育で「事実を客観視して」等といいますが、それってすごく難しい。殆どの人がナショナルアイデンティティを持っていると思うし、自国の視点から一つ一つの出来事を見ていくことが一番自然かつわかりやすいからです。

 

ひとまず、日本が歴史教育においてすべきことは、「原爆神話には根拠がないんだ」と叫ぶことでもなく、「唯一の被爆国」という被害者意識のみを肥大化することでもありません。

原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」という言葉を実現するためには、なぜ当時の各国の指導者はその決断を下したのか、彼らはどのようなアイデンティティを持っていたのかを知り、そして自国は他国に対してどのような行為を行ったのかという加害者としての側面にも正面から向き合うことが必要なのだと思います。今の日本の教育は十分にそれができているとは言えないでしょう。

 

歴史に正解を見出す事はできないかもしれないけれど、未来を自らの手でより良いものにしていくための材料として、学び続けることが必要なのだと思います。…とにかく色々と考えされた授業となりました。